2005年5月24日火曜日

放置しまくりですね。日記を書きまくっているときはたいてい心の調子が悪いので、今は絶好調ということです。体調はまた悪いけど…。冬は喉や鼻から調子を崩し、暖かくなると胃腸を壊す、というのが去年からパターン化している気がする。

ここでの生活はあと一月くらいしかない。本などを買って帰らなきゃいけないけど、まだ何を買わなきゃいけないのか分からない。卒論のテーマを決めてないから。ひとまず、辞書類とガイドブック類だけは早めに手に入れようと思う。テストや課題もあるし、遊んでいる場合ではないのだけど何もしてない。

日記を書いてないのには、多分日本語力の低下のせいもある。書き出したら止まらないのは変わらないけど、時間がずいぶんかかるようになった。これくらいの方が、日本語との距離の取り方としてはいいのかもしれないが。本が読めないわけでもないし、人の話も分かるしいいたいことも言えるし(コミュニケーション能力とは別の次元で)、書くのにも困らない。

最近したこと。

昨日 ビーチ(と称しているが緑色の川の縁に砂を運んでビーチにしてるだけ)で夜の十時までバレーボール。

今日 昨日無理をしたためかおなかが痛くなりコピーなど取ったり、ネットをしにいった他は家で寝ていた。

読書

大江健三郎「取り替え子」を読む。今まで大江健三郎とはなんの縁もなかったけど意外におもしろかったというのが感想。この小説も感情移入とかしづらい人ばっかり出てくる。大江健三郎の本は他にも親に持ってきてもらったけど、それらはエッセイ集で私はあまり好きじゃなさそうだった。込めている意味、がエッセイと小説とでかけ離れてくるわけじゃないはずなのに、エッセイだといろんなことが鼻について、小説だとすっと読めるのはなぜだろう。あと、小説家で、小説よりエッセイや論考の方がおもしろい人がたまにいるけど、この人はそうじゃない。私の読みが浅すぎて、「アレ」が結局なんだったのか分からない。

Gloria Anzaldua. Borderland / La frontera を斜め読み(最初の二章だけ)。三年前に読んで挫折している。今は斜め読みが出来るようになったけど、そこまでくるのに三年…。「国境、境界線」というのを人種、国家、性別などのせめぎ合う場所、と捉えて、その上に展開するエッセイとか会話とか詩とかマニフェストとかの総体がこの作品なんじゃないかと。チカーノ関連を読んでいつも思うのは、アメリカという場所にいるからこそ発言できる人たちの文学だということ。チカーノはメキシコというルーツを前面に押し出してくる人が多いけど、そのルーツであるメキシコでは、よっぽど上流の人じゃないと小説なんて書けないはず。他の南米諸国でも一緒だと思う。その辺皮肉に感じると共に、アメリカの魅力でもあるのかしら、と思ったり。

0 件のコメント: