2005年5月31日火曜日

真夜中に日記を書くのは、一種の悪徳だと思う。夜中にチョコレートを食べたり突然酒を飲んだりしているようなものだ。

El mataderoの続きを読む。CatedraのLetras Hispanicasのシリーズは冒頭に解説(ついてないのもあるが)、代表的な参考資料、本文にみっちり注釈、と一人で独学するのにも最適。文学理論などはたいてい無視されてるので、日本の文学研究の流れからするとあまりよくないのかもしれないけど。そういうわけで、二回目を読みつつ何となく分かった気にもなっている。問題はこれからだが…。

2005年5月30日月曜日

午前中、日本人の友達と会う。三時間くらいしゃべり続ける。海外で知り合う日本人は普段の生活では知り合わさそうな人が多くて、それでも話せば意外な面も見れたりして仲よくなったり、おもしろいものだ。

午後、成り行きで友達の家に行く。一週間に一回以上通い詰めているような気がする。カルフールに行かないか、とか、プールに行かないか、とか言われて、断りつつ「三日提出の課題にほとんど手をつけてなくてナーバスなんだよね」と言ったら呆れていた。レポートとかけっこう真面目に準備してみんな書いている。私は直前にしかできない性格がここに来てまでも直らない。「多分ろくでもないのを出すことになると思うよ」と言ったら否定されなかった。その友達の実家に行く予定なので、その話などちょっとする。

レポートのお題はHuidobro, Altazor→Rodo, Ariel→Echeverria, El mataderoと変更しまくり。El mataderoは短いけどスペイン語も古いしおもしろくなくてやっぱり読むのに苦労する。メモを取りつつ読んでいるけど、最近日本語で文章を書いてばかりいるからか、メモが日本語になってしまう。常に読み書き聞き話してないと、ここに住んでいてすら衰えるものらしい。帰国後どうなるんだろうか。
一気にローカルに書いてたぶんをコピーしてみた。もう留学生活もあと一月。一昨日日本人の友達がメキシコに旅立ち、昨日友達とのピザ大会に行って私一人では人付き合いがしづらいことに気づく。言葉の壁が低くなったからこその悩みかとも思う。

スペインの話。昨日のピザ大会で、フランスがヨーロッパ憲章にノーの答えを出した、ということがひとしきり話題になった。私以外はヨーロッパの人なのでみな興味がある様子。ポルトガルも新しい政府には国民の不満が高まりそうな気配らしく、おそらく否決されるとのこと。フランスの場合、シラク政権への不満が否決へとつながったわけで、ポルトガルもおそらく同様のことが起こるだろうと。ヨーロッパ憲章って何かよく分からないし、同居人は心底どうでも良さそうだ。でもニュースでは「ヨーロッパの危機」として報道されており、今後は注目らしい。

同じくピザ大会で、アメリカ人に対する敵意は共通してあらわだった。ブッシュ嫌い、というわけでもなさそう。日本だと欧米ってひとくくりだけど、そんなこととてもじゃないけど言えない。日本にとってアメリカは、たとえブッシュが馬鹿だというのが共通見解としてあっても、テロ以降どうもうさんくささが前面に出ている観が強くても、どこか夢の国でありつづけているように思う。ヨーロッパでも、今も移民を送り出している東ヨーロッパの国々ではイメージが違うのかもしれないな。

日記を前にすると、書けなくなるのはなぜか。

レポートの準備でRodoのArielを読んでいる。レトリックがすごすぎるのか、さっぱり理解できない。短いからすぐ読めると思ったのに。ShakespeareのTempestを下敷きにした作品だが、小説ではなくかなり教育的なもの。Prosperoとの異名を取る教師が、若者たちに最後のレクチャーをするというものだが、一章の途中で四苦八苦している。早速キャリバン(=アメリカ合衆国)とアリエル(=ラテンアメリカ)の対比とかが出てくると思っていたところ、ギリシャ人やルナンや頭の狂った女の話が続き、まだまだ出てこない。「若さ」のすばらしさについて。熱狂や希望に結びつけられる若さ、というと、ナチスの若く美しい肉体の賛美とか紅衛兵のことをぼんやり思い出す。このエッセイは、二十世紀初頭に書かれたものなのだ。まだ第一次大戦も前だし、ナチスも共産主義国もない。核兵器だってない。未来への希望には翳りがない。

まだ初めの方だけど、これは理解するに当たってかなりの参考文献を必要としそうだ。歴史的な文脈の知識が欠けているから。その前にスペイン語とも格闘しなければならない予定。

Arielに興味がある方は下のリンクからどうぞ。ちなみに、Arielはポストコロニアルの文学批評で有名な論文(フランケンシュタインとジェイン・エアとThe Wide Sargasso Seaを論じている)で初めて知った。サバルタンの人だが名前を忘れた。

Modernismoっておもしろそうだけど、カタルーニャのモデルニスモと何か関係はあるのか?あるならその辺の本を読むのはきっと楽しい経験になるのではないかと思う。

上記とは関係のないこと。最近周りでカップルが成立している。今スピッツを聞いているのだけど、周りの人を見ているとスピッツのような恋愛世界とはなんの関係もなさそうだ。「触りたいのにさわれない」とか、そういうのがないからだろうか?恋に落ちたら、とにかく態度で示しているような気がする。さわりたいのにさわれなくて妄想が紡がれる、というのとは違うような…。

2005年5月24日火曜日

放置しまくりですね。日記を書きまくっているときはたいてい心の調子が悪いので、今は絶好調ということです。体調はまた悪いけど…。冬は喉や鼻から調子を崩し、暖かくなると胃腸を壊す、というのが去年からパターン化している気がする。

ここでの生活はあと一月くらいしかない。本などを買って帰らなきゃいけないけど、まだ何を買わなきゃいけないのか分からない。卒論のテーマを決めてないから。ひとまず、辞書類とガイドブック類だけは早めに手に入れようと思う。テストや課題もあるし、遊んでいる場合ではないのだけど何もしてない。

日記を書いてないのには、多分日本語力の低下のせいもある。書き出したら止まらないのは変わらないけど、時間がずいぶんかかるようになった。これくらいの方が、日本語との距離の取り方としてはいいのかもしれないが。本が読めないわけでもないし、人の話も分かるしいいたいことも言えるし(コミュニケーション能力とは別の次元で)、書くのにも困らない。

最近したこと。

昨日 ビーチ(と称しているが緑色の川の縁に砂を運んでビーチにしてるだけ)で夜の十時までバレーボール。

今日 昨日無理をしたためかおなかが痛くなりコピーなど取ったり、ネットをしにいった他は家で寝ていた。

読書

大江健三郎「取り替え子」を読む。今まで大江健三郎とはなんの縁もなかったけど意外におもしろかったというのが感想。この小説も感情移入とかしづらい人ばっかり出てくる。大江健三郎の本は他にも親に持ってきてもらったけど、それらはエッセイ集で私はあまり好きじゃなさそうだった。込めている意味、がエッセイと小説とでかけ離れてくるわけじゃないはずなのに、エッセイだといろんなことが鼻について、小説だとすっと読めるのはなぜだろう。あと、小説家で、小説よりエッセイや論考の方がおもしろい人がたまにいるけど、この人はそうじゃない。私の読みが浅すぎて、「アレ」が結局なんだったのか分からない。

Gloria Anzaldua. Borderland / La frontera を斜め読み(最初の二章だけ)。三年前に読んで挫折している。今は斜め読みが出来るようになったけど、そこまでくるのに三年…。「国境、境界線」というのを人種、国家、性別などのせめぎ合う場所、と捉えて、その上に展開するエッセイとか会話とか詩とかマニフェストとかの総体がこの作品なんじゃないかと。チカーノ関連を読んでいつも思うのは、アメリカという場所にいるからこそ発言できる人たちの文学だということ。チカーノはメキシコというルーツを前面に押し出してくる人が多いけど、そのルーツであるメキシコでは、よっぽど上流の人じゃないと小説なんて書けないはず。他の南米諸国でも一緒だと思う。その辺皮肉に感じると共に、アメリカの魅力でもあるのかしら、と思ったり。

2005年5月18日水曜日

発表は散々だった。もともと内容が低レベルだった上、同じ日の発表者が同じ作品を扱っていた。すばらしい出来。ドイツ人は全体にレベルが高い気がする。

帰国後することを考えている。将来のこととは関係のない企画の一つは阿波踊りツアーをたてて友達と徳島に行くことだけど、考えてみれば宿を取る暇がない。あと日本の日常生活をつづるスペイン語の日記をつけるとか。通訳ボランティアをするとか、ブラジル・ポルトガル語を学ぶとか。自分の性格を考えてみるに、実際飛び込んでみないと何ともならないので、早くなんかの仕事をするべきだと思い始めた今日この頃。

日本語が書けなくなってる。スペイン語が書けるわけでもないのに。昨日、電話で話してたら「話すのが遅くなった」と言われた。あと二年くらいこの生活を続けたら、日本語能力がすごく落ちるに違いない。私は語学の才能はある方だと思うけど、すごくあるわけじゃないんだよな。スペインまで来といてこれだからなあ…。今のスペイン語力は、

自分と交わされる日常会話はだいたい分かる。

スペイン人同士の会話も少し分かるようになった。

映画やドラマもまあだいたい分かる。ただし、細部は分からない。

本や新聞も辞書無しで読める。あらすじが分かる程度だが。

友達とのメールなら問題ないが、改まった文が書けない。

中級以上の文法事項がよく分からない。

少なくとも会話では、正しい接続法(特に過去)が使えない。

改まった会話が出来ない(全部tuで喋ってしまう)

つまり、留学生として暮らすなら問題ないけど、スペイン語で仕事をするレベルではなく、日本で仕事にするのもどうか、というレベルなのだ。私は日本ではかなりみっちりと中級レベルの文法をしたけど、こっちでは基本的な文法の授業しか受けていなくて、あとは実地で単語や言い回しを覚えた。書き言葉はちゃんと学んでいない。話し言葉もこのレベルではどうかと思うが。ここから、日本にいながらにして自力でお仕事レベルまで上げることは可能なのか?でも、これからさらに勉強を続けてもなあ、と思う。日本の大学はきっと帰国したらかなり退屈だ。

留学生活は語学力の上達には一役買ったに違いないけど、本当のところ、専門学校に行ったほうが語学力そのものはつくんだと思う。

2005年5月16日月曜日

あと十時間しかない…。「苦労して作ったものを上手く話せるか」じゃなくて「そもそも時間に間に合うよう形に出来るのか」がいつも問題になる。同居人は「そんなに心配しなくても大丈夫!」と励ましてくれたけど、まだ構造すらちゃんと決まってないんだよね…。人前で話すこと自体はそんなに苦ではないのでとにかくスキームと台本を作ればわりとべらべらしゃべれる。これでも、日本で発表してたのよりはずいぶんちゃんと準備している気がする。まあ誰も聞いてないからどうだっていい気もしてきた。

先日、「スプートニクの恋人」も読んだ。全く話を覚えてもいないしあらすじさえ理解していたかあやしい。前に読んだときは鬱っぽくなっていたので過剰に自分と重ねすぎてあらすじすら追っていなかったのかもしれない。村上春樹は「ぼくの」話で、私の話じゃないんじゃないかと思った。あと、性的モラル(不倫とかそういうの)という点では山田詠美の小説や内田春菊のマンガに出てくる人の方がよっぽど常識的だ。主人公はいつもある種の女性にはすごくもてて寝る相手には困らないが、好きな人とは満足のいく関係を築くことがない。

今準備してるのは「蜘蛛女のキス」だが、論文を読んでいると研究者の想像力に驚く。「本に書いてあることだし物語だしどうでもいい」というのが率直な感想なので、もうこうなると何で文学専攻に計三年もいてさらに二年も続けるのか分からない。もっと自分は考えることが好きで、思考力があるのではないかと期待してたけど違う。違いすぎ。文章の作りを分解してより分かった気になるのは楽しいけど、それ以上はやる気がない。帰国したら取りあえず何かできそうなものを探してみよう…。適性について悩んでいるような時間もない。

2005年5月15日日曜日

発表前にしてほとんど何もしていないのでナーバスだ。

Placeboをちょっと前に友達に聞いてコピーしたのを聞いている。口ずさめると楽しいと思い、歌詞もネットからコピーしてきた。イヤホンを耳に差し込み、音楽の世界にはまりこむのはあまり好きではない。でも夜だからそうする、するとどんどん世界が自分の頭の中だけで完結していく感じがする。

小説を読むのが楽しくなってきたのはいいけど、やっぱりこれは私には向いてないなと思う。私が本を読むのを好きだったのは、頭の中をスピードを上げて文章が飛び去っていくのが好きだったからだ。内容はわりとどうでもよかった。本の中から何かを取り出すには、私は想像力がなさ過ぎる。小説から何かの答えを透かしてみることができるとも思えない。ある時期に、ある本が(何かの詩でもいいけど)、そのときの経験と重なる気がしてそれで思い入れがあることは多いけど、それってなんの解釈でもない。

2005年5月11日水曜日

月曜日か火曜日に買ったハムにもうカビが生えていた。冷蔵庫に入れてあったとはいえ、最近は気温も高く、ものが腐りやすい。火を通さずに電子レンジを多用する生活だから気をつけなければ。

2005年5月10日火曜日

ずっと放置してるなあ。ローカルで書いたりもしているのだけど、こっちにコピーしてない。

すばらしい五月がやってきて毎日天気がよかった。その反面、六十年で最悪の日照りらしい。ここ数日は雨だけど、その日照りのことを思うと降ったほうがいい。

2005年5月8日日曜日

図書館でアブサロム、アブサロムを借りた。英語を借りようと思ったけど無理なのでスペイン語にした。語彙力は英語の方があるはずだけど、英語のリズムに乗ることが出来ないので。登場人物の名前がスペイン風に変えられていた。日本で中国の小説など読むとき、日本語読みで漢字の名前を読むようなものなんだろうけど違和感がある。

「国境の南、太陽の西」読了。他人は自分の隙間を埋めるための存在かとか。最後の方のセックスシーンが笑えるとか。島本さんは語り手の願望が実体化した亡霊じゃないのかとか。最初から最後までいやな話だなというのはずっと感じつづけた。一種の王子様願望の物語か。自分に足らないものが特別な誰かと出会うことで埋められて新しい人生を歩み出せるという。ところが、絶対的に分かり合えるはずだったその相手のことを何一つ理解できなかったということが明らかになり、二人の関係は永久に失われる。過去の亡霊が決定的に消えたかに見えても主人公がそういう幻想(妄想)を振り切って今後暮らしていくのかは怪しい。村上春樹の作品は個人的な思い出とかそういうものを呼び起こし、かつそういった王子様願望のようなものを共有していることは否めないためにより苛立つんだろうな…。

そういえば、村上春樹とうちの親の世代はだいたい同じはずだけど、俗っぽいヒット曲とか顔を出さないのでいつの話かあまり分からない。全共闘とかは出てくるけど。

それとはなんの関係もなく。こないだのドライブの写真を友達のカメラからコピーさせてもらう。楽しそうに映っているのはいいけどいつも歯を見せて豪快に映りすぎている気がしてきた。じゃりン子チエみたいな…。しかも国籍も不明気味に映っているような。

2005年5月7日土曜日

十日くらい前から、「国境の南、太陽の西」をスペイン語版で読んでいる。読むのは七年ぶりくらいか。出版直後、図書館に入ってそう日も経たないくらいに読んだのだと思う。

村上春樹を読むたびに、主人公に苛立つ。高校時代に愛読していたときはそんなことはなかったのだが。月日が経つごとに苛立ちが増す。「ノルウェイの森」が顕著で、何度か読んでいる好きな本だが、読むごとにワタナベくんに対する苛立ちは増すばかりだ。

物語の背景はバブルまっしぐらの東京(1980年代後半)。主人公は1951年生まれだから私の親とほぼ同世代だ。関西のどこかの街(京都か大阪近郊か)の平均的なサラリーマンの家庭で育って大学から東京に出る。卒業後サラリーマンをするが建設業者(?)の社長の娘と結婚したことをきっかけにジャズバーを青山に開くことになる。その事業が成功を収めて妻子と共に青山の瀟洒なマンションに住み、箱根に別荘を持ち、高級車を乗り回し、紀伊国屋で買い物をし、高級車で子供を送り迎えするような親ばかりの幼稚園に子供を通わせたりする。株をする義父の手助けで株で儲けたりもする。そんな三十代後半の世間的には成功した男性が、ある日小学校時代に友達とも言い難い親密な関係にあった同級生と自分の店で再会して奇妙な不倫関係に陥る。

バブルでの成功者に、何だかよく分からないうちに自分もなっていて、そんな世界に馴染むことが出来ない人の話か?あくどい商売もしているらしい義父に反発して自分は真面目に働いて金を稼いでいると言いつつ、最終的には夫婦で依存し続けているように見える。

女性に関しては特に「島本さん」がリアリティない。どこで何をしてお金を手に入れているのか分からないがいつも高級品を上品に身につけている。私生活は極秘でほとんど何も分からない。小学生の頃はそうでもなかったが、再会してみると大変な美人になっている。ものすごい微笑をしばしばする。この微笑みについての描写は、中世の詩みたいだ。「君の真珠のような歯」とかそういうやつ。そんな「島本さん」とはバーで出遭ってジャズの話とかをする。幼稚園の親仲間とくだらない話(ミキハウスのバーゲンとか)をするのとは反対に満たされる内容のようだ。「川が見たい」となぜか頼まれて石川県まで一緒に日帰り旅行に行き、あと一歩踏み込んだ関係になりそうだったが今の生活のことを考えて踏みとどまる。「島本さん」とは縁がなくて、住所変更のはがきもなぜか届かなかったし、二十代後半の独身時代に一回街で見かけて追いかけたが交流ないままに終わるし、再会してみれば妻子持ち。でも惹かれ合うべくして惹かれ合うのだが。

ずるいな、と思うのは、「自分のために出来ている女の子」がいてそういうのはすぐ分かる、と言い、奥さんも美人ではないけど「ぼく向けの相手」(日本語はどうなってるのか知らない)だとか言っているのに運命の相手は超美人で誰もが美しいと思うような女性か…ということ。この主人公はそれに限らずずるく、「ずるがしこい」というよりは単にずるく、ちょっとそれに気づいているが気づかないふりをしているという感じか。

とにかく気になったのは

  • バブル
  • セックスの持つ意味(ある特別な相手と、適切な時期に寝ると生まれ変われるのではないか、という幻想)
  • 自分のために出来ている相手

外国で外国語で暮らすことは私に新しい世界をくれたことは確かだと思う。日本語では思考力に合わない語彙を使いまくっているのではないかとは考えたこともなかったが、どうもそうらしい。このことを知れたのは、今のところ私が留学で得た一番のものだ。人間関係をのぞいて。

2005年5月6日金曜日

昼間は近郊にドライブ、夜は誕生日のお祝いに呼ばれて出かける。ドライブは運転が荒くて怖かったのをのぞき(でも運転そのものはすごく上手い)、楽しかったが夜はいろいろあってしこりが残るような感じ。開催者のアパートの人は怒鳴り込むし、開催者の同居人のタバコを誰か自分のものにしてしまったらしく、大変腹を立ててその後の二次会に来なかったし、ディスコの前ではゴミ箱の中身が燃えるし、帰り道では建物の壁が落下したあとらしきものを目撃し…。

ゴミ箱が燃えているのは衝撃だった。入り口に立つガードマンは500mlペットボトル入りの水で火を消そうとするし、近くにいた人が「消防車を呼べばいいのでは」と言うと「呼びたければあなたが呼べばいい」と答えるし。さらに周りに紙など燃えるものがあるのに、燃えているゴミ箱の中身を道路にぶちまけていた。恐ろしくなって友達と立ちすくむ中、他の人は平気でディスコに入場していく。ありえない。ディスコが燃えてたくさんの人が死ぬ、というのは簡単に起こりうると実感した。

昼間にコーヒーを飲んだところでちょうど結婚式が開かれていて結婚式の話になったのだが、スペインでもできちゃった婚はあるらしい。さすがにそういう人は教会で式を挙げるのは控えたりもするらしいけど、妊婦用のウェディングドレスもあるとか。そして、純潔を象徴する純白のウェディングドレスを着ることができる人も少ないわけで、最近では「薄汚れた白」のドレスがあるということだった。スペインも急速に開放的になっているけど、現実ときしみを起こしているのではないかと思う。できちゃったら結婚するあたりも、けっこう保守的なのでは、と思うし。日本と同じく。