2005年6月1日水曜日

レポートがあまりに進まず(読み終わってさえいない)、絶望的な気分になって昼まで寝る。大学で友達と会い、「先生に締め切り延長してもらえば?それでこれから一緒にビーチに行ってそこで本を読むのもいいんじゃない?」と言われた。さすがにビーチには行かなかったが妙に安心してまたのんびりしてしまう。先生はいなかったのでなんの解決もされてないのだが…。

何が問題か、というと、文章が古くてアルゼンチンの言葉もふんだんで、読むのに骨が折れるから。プイグやマルケスの小説を読めたことでいい気になって辞書をひかずに読んだら筋すら理解できず、最初から三種類くらいの辞書を参照しつつ再び読むことになってしまった。辞書をひきながら本を読むのって私にとっては楽しみではないことを知った。言葉の流れに身を埋めることが楽しいから読んでいるのだと思う。外国語ではさすがにそうもいかなくて、日本語とは違う本の読み方になり、それ故に日本語で読むとき以上に理解できることもあるのだが。

日本に帰る日のことを考える。私は日本に帰国してから十五年ほど、日本を好きだと思ったことなどないのではないかと思うことがある。かといって、日本人だというアイデンティティは消えようがないし、日本人としての身のこなしがどこまでも染みついている。日本の好きな食べ物、愛着のある場所や人をそれぞれ表明することはできる。でも、「日本」が好きか?と言われると、そのぼんやりしていてでも確固とした形があるようなものに「日本人として」好きだとか嫌いだとか言えない。そういう質問は、「日本って住むのにいいところだと思う?」とか「日本は魅力的な場所だと思うか?」ということを聞いているわけではない。上記の質問には「人がやたらと多いので大変だがサービスもいいしきちんとしているので比較的安心して住めるところだ」とか「山も海も島もあるし、独自の歴史があるので見るべきところはたくさんあるし、魅力的な製品を作るところでは世界一ではないかと思う。」と答えることができる。でも、「日本を愛していますか?」と日本人に聞かれる、あるいは自問自答するとき、それは愛国心を問うているんだよな。この質問に上の答えは通用しない。「世界一魅力的な小物やら洋服を作っている国だから好きだ」というのも妙だし、「南北に長い島国だから気候風土に変化があって美しいので好きだ」というのももっと変だ。答えには好きか嫌いか、というのしかない。日本人として生まれ育った以上、国籍の示すものに自信が持てればもちろんいいと思う。でも主体的に選んだわけでもないし、その国に生まれればそこを何もかもひっくるめて愛情を示せることもない。

そんなことを考えるのも、留学したら愛国者になって帰る、という話を聞いたからなんだけど。そういうこともなかった。愛国者になって帰るのは、男性が多いのではないかと思う。女性はもう日本に帰らない人も多いのではないかと思う。

なぜだか知らないが、望郷の念が全く起こらない。気を張って、身も心も同化しようとしているからかもしれない。でもある程度そうしないと、異文化の中で暮らすのは難しいのではないか?日本人の身のこなしのまま、こっちでやっていくこともできるのだろうけど、それにはずいぶん精神力が必要だろうと思う。

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